モイオットチャン・ストーリー 第五話 みさの場合

「オツカレサマデシタ」
タッチパネルに映し出された「退勤」を押すと、
最新のセキュリティシステムは
やさしい声で労いの言葉をかけてくれる。
オンライン会議中の上司に向かって頭をぺこりと下げると、
一瞬だけこちらを見た彼女は、またすぐPC画面の中にいるクライアントへ目線を戻した。
寺田みさ、34歳。私が勤めているのは、企業のサービスや商品をTVや雑誌に露出させるお手伝いをしたり、PR業務を代行したりする会社だ。
新規クライアント獲得数が伸び悩んで、自ら緊急出動する羽目になった上司は、ここ1ヶ月ほど「ピリピリ」と音がしそうなくらい苛立っている。
触らぬ神に祟りなしとばかりに、そそくさとオフィスビルを出てスーパーへ向かった。
金曜日。いつもなら同期の女の子たちと飲みに出るか、付き合って2年目になるユウタの家のキッチンに立って、何か栄養のあるものを作ってやることが多い。
でも今日は、どちらもパスした。
シングルマザーで2人の子供を育てている上司や、お腹を空かせて待っている大きな子供(ユウタ)には後ろめたいが、今夜は自分のためだけに、自分の好きなものを作って食べて飲みたい。
最寄り駅前にある激安スーパー。
左腕に買い物かごをぶら下げて、少し大股で店内を歩く。
大入り大葉98円。厚揚げ78円。
ユウタの家に行く途中には、百貨店系列のちょっと割高なスーパーしかない。
そこで買い物をすると、お財布と相談しながらメニューを考えるので頭をとても使う。
今日はそのストレスがない分、気持ちがうんとラクだ。
3割引シールが貼られている合鴨のサラダを発見して、気持ちがはずむ。
「今日はお刺身も買っちゃおう」
一旦通り過ぎたお刺身コーナーに舞い戻り、少し悩んでから手頃なアジをかごへ入れた。
最後にお酒コーナーへ寄って、最近お気に入りの缶ビールを数本かごに入れる。
レジに向かう前に、カップ酒も追加した。
家へ帰り着くと、部屋とエアコンのスイッチを入れてキッチンへ直行する。
手早くエプロンを身につけ、左、右の順番で腕まくりをする。
キッチンライトの灯りに照らされたステンレス天板の上に、まな板と包丁をセット。
エコバッグから、買ってきたばかりの缶ビールを取り出す。
勢いよく開けると、プシュッと爽快な音が立ち、飲み口に濃密な泡がせり上がってきた。
すかさず口を付け、ゴクゴクゴクと喉を慣らしながら、一気に3分の1ほど飲む。
これでやっと準備万端だ。

まずは小気味よく大葉を刻んでいく。
その間にフライパンを温め、ごま油を垂らす。
香りが立ってきたら厚揚げを入れ、焦げ目が付くまで焼く。
厚揚げが両面こんがりと焼けたら平皿によそい、
上から刻んだ大葉をたっぷりと乗せる。
ポン酢を回しかけると、ツンと酸っぱい香りに食欲を刺激されて、思わず唾を飲み込んだ。
でもまだ、完成じゃない。
冷蔵庫から『モイオットチャン』を取り出す。
実はさっき激安スーパーで食材を選んでいる時、
今日はこれを使ったメニューにしようと決めていたのだ。
どんな料理も、たちまちアジアンテイストに変えてしまう魔法のソース。
厚揚げの上から思いのままにモイオットチャンをかけたら、10分足らずで1品目が完成した。
モイオットチャンは、ユウタとデートしている時にたまたま寄ったカルディで見つけた。
ほのかな酸味とコクのある甘み、パンチのある辛味が病みつきになる美味しさで、不思議とどんな料理にも合う。
プチトマトを添えただけの合鴨のサラダ。
お皿に移し替えただけのアジの刺身。
アジアン焼き厚揚げと、飲みかけの缶ビールをテーブルへ運んだら、いよいよ自分だけの宴開始だ。
まだ湯気の立っているアジアン厚揚げを、箸で一口大サイズに切り分けて口に放り込む。
やばい…これは美味すぎる!

缶ビールが一瞬で空になった。
もぐもぐ咀嚼しながら、2本目の缶ビールを冷蔵庫に取りに行く。
「食べさせたいかも」と、ふいに頭に浮かんでしまうのは、やっぱりユウタの顔だった。
ほろ酔いに任せてスマホを手に取る。
「おつかれー」
馴染みのある声が聞こえてくると、確かにほっとする自分がいて、やっぱりこの人なのかも、と思う。
「やばいわ」
「何が?」
「最高なやつを作ってしまった」
「うまいの?」
「飛ぶよ」
「今度食べさせてね」
顔が見えなくても、スマホ越しにユウタがニヤついているのがよく分かる。

「あ、ねえねえ。来週末さ、またカルディ行こうよ」
「いいね。俺、生ハムにあのミドリのやつかけて食べたい」
「それ!上司が最近疲れてるから、モイオットチャンあげようかなって。たった今思いついたんだけど」
「2人子どもいる人だっけ? 疲れてると辛いもん食べたくなるもんな、いーじゃん」
あれこれ説明しなくても通じあえる心地よさ。
「おつかれさま」と労い合う相手がいることの嬉しさを、自分のために用意した御馳走といっしょに噛み締めた。
ちょい足しレシピ “飛ぶ”アジアン厚揚げ
【材料】
厚揚げ
大葉
ポン酢
ごま油
モイオットチャン
【作り方】
①解放感のある金曜日に、自分のために、自分の好きなものを食べると決意する
②キッチンに立ち3分の1ほどビールを飲む
③大葉を刻む
④フライパンにごま油をひく
⑤厚揚げに焦げ目がつくぐらいしっかりと両面を焼く
⑥焼きあがった厚揚げに大葉をちらしポン酢をかける(お好みで白ごまを加えても◎)
⑦モイオットチャンを適量加える(このあたりで1本目の缶ビールが飲み終わっていると思いますので2本目を取りにいきましょう)
⑧大切な人を思い浮かべる
一人でも“つながる”へべれけレシピ