気持ちが落ち着かない。いや、それは正確じゃない。気持ちが落ち込んでる? いや、それも正確じゃなさそうだ。不満? 正直にいって不満に思うようなことはほとんどない。
夫は家族のために精一杯働いてくれているし(ちょっと働きすぎなところもあるけれど)、高校に上がった娘は、たまにハラハラするところもあるけれど、天真爛漫に育っている。家族の仲もよく、娘とパパの関係も良好だ。
友人たちが笑いながら旦那の愚痴を言い合っているとき、私はいつも困ってしまう。別に私の夫は完璧な人間ではない。人間なんだから大なり小なり欠点があるものだし、いちいちそれを指摘しても仕方がない、と思ってしまうのだ。
家族に問題はない。小さいながらも持ち家だし、お金に困っているということもない。大学を出てすぐに結婚をした私は、パートに出ることもなく専業主婦としてわんぱくな娘を育て、私なりに家庭を支えた。平凡といえば平凡。でも私にとっては十分冒険だったんだけれど。
もしかして私の冒険は終わってしまったのだろうか? ぼんやりと、ふわふわ続く幸せの中、そんな気持ちがやってくる。「不満がないことが不満」なんてことは思いたくない。でも――
「ママー、ちょっと来てー」
私は娘に呼ばれてキッチンに行く。しっちゃかめっちゃかになったキッチンの前で娘は、へらへらしながら「あの皿どこにあるんだっけ?」と私に訊く。
「あの皿?」
「ほら、あのお洒落なやつあるじゃん」
そう言って娘は両手で円を描く。
「ああ……」
私は食器棚の奥のほうからアフタヌーンティスタンドを取り出してキッチン・テーブルの上に置く。
「何作ってるの?」
「まあ、まあ、リビングに行っててくださいまし」
娘はそう言って私をキッチンから追い出す。視界に入った材料からはアフタヌーンティと関係のないものばかりが並んでいたような気がするけれど。
「奥様、おまたせいたしました」
そう言って娘はテーブルに生春巻きを乗せたティスタンドを置く。そして対面に座りながらひょい、と口に放り込む。
「いい感じでしょ?」
娘はグラスに入ったモイオットチャンに生春巻きをたっぷり浸して、大きく口を開ける。
「そんなにつけたら辛いよ!」
娘は口をもぐもぐさせながら「知ってるよ。あたし辛いの好きだもん」
「……でもつけすぎ」
「ママも食べてみてよ」
私は端のほうの生春巻きを一つフォークに刺して口に運ぶ。海老のプリっとした食感と、パクチーの香りが口に広がる。
「美味しい……」
「でしょ! 辛いのもちょっとつけてみてよ?」
私はモイオットチャンの入ったグラスを傾け数滴たらして、生春巻きを口に入れる。
「辛い……」
娘はきゃっきゃと嬉しそうに笑う。「全然そんな量じゃ辛くないでしょ」
いつの間に娘はこんな辛いものが食べれるようになったんだろう? つい最近までは中学生だったのに、いやランドセルを背負っていたのだってそこまで昔の話じゃない。
「……辛いのそんなに好きだった?」
「好き好き。それに、流行ってるんだよ、ホラ韓国とか流行ってるじゃん」
これはベトナムのソースなんだけどな、と思うけど口には出さない。
「あ、もうなくなりそう……ママ、カルディで買っといてよ」
「これ、カルディで売ってるの?」
「うん」
そう言って娘は「ぎゅうっ」とホイップを絞るようにモイオットチャンを出して、生春巻きを浸して美味しそうに頬張る。
「ママ、ワインでも飲んだら?」
「飲まないよ、というかこれはなんなの?」
「これって?」
「なんでアフタヌーンティなわけ?」
「えー、女子会じゃーん」
「女子会?」
「そう、女子会」
「なんで――」
「女子会に理由なんてないじゃん、食べて、飲んで、くだらない話をして……なんかそんなやつでしょ? ホラ、してみてよ。くだらない話」
身を乗り出す娘に私は思わず笑ってしまう。
「ママは別に話とかないよー。毎日同じ日々を過ごしてますからー」
「たまには友だちと遊び行ったらいいじゃーん」
「まあねえ」
友だちと聞いて私は真っ先に大学の友人たちの顔が浮かぶ。私は朝まで飲んで騒いで、というタイプではなかったけれど、友だちが騒いでいるのを見るのは好きだった。とても。
「一杯だけ飲もうかな」
「いいじゃん、どうせパパ帰ってくるの遅いんだから」
私はワインセラーからサンセールを取り出してワイングラスに注ぐ。
「私も飲みたい!」
「だめ!」
娘は「はいはい」と言って冷蔵庫からジャスミン茶を取り出してグラスに注ぐ。
「ねえママはさ、悩みとかないの?」
私の目を覗き込んで真剣な表情で娘は訊ねる。私は一瞬考える。悩み――?
「悩みかあ……」
娘の瞳を見ると、彼女はもうアニメのキャラクターのグッズを欲しがっていた女の子じゃない、ということに気づいた。そうか……そうなんだ――。
寂しさを超えた嬉しさがあった。私は娘に手がかからなくなりはじめて、自分の存在意義を見失いかけていたけれど、これから始まるだろう予感めいたものに熱く込み上げるものがあった。
「ママの悩みはねー、ちょっと太ってきたことかな」
「じゃあ、いいダイエット法教えてあげよっか?」
娘は熱心に最新のダイエット法を私にレクチャーする。眉唾ものや、過激なもの、効果が期待できそうなもの……娘は私が聞いたことのないような様々なことを娘自身の言葉で話した。
「今度さ、ママと英国スタイルのアフタヌーンティに行ってみようか?」
「え、行ってみたい」
「スコーンときゅうりのサンドイッチと美味しい紅茶が出てくる本式のやつ。……そしてこの辛いアフタヌーンセットは今度、ママの友だちと試してみる。だからレシピ教えて」
娘の考えたレシピなんだ、と言ったらみんなはどんな顔をするだろう。お酒とも合うし――そうだ、今度はスパークリング・ワインを持っていこう。きっと合うはずだ。
娘は手掴みで生春巻きをパクっと口に入れる。
そして残った生春巻きを私の皿と自分の皿に取り分ける。
「パパに残しておかなくていいの?」
「いいの、だって女子会だし」
娘もいつかややこしい恋愛をしたり、友だちとバカ騒ぎをするようになるだろう。そして私たちの関係も親と子――庇護しされもの、という関係を超えていくだろう。
私は気づく。娘が成長したと同時に、私も成長してきたんだ、と。
そうだ、まだ物語は続いていくんだ。
私は食べ終わった食器を片付ける。慎重にティスタンドを持ってキッチンに入ると、料理のあとのしっちゃかめっちゃかになった光景が目の前に広がっていた。なんで、生春巻きでこんな風になるのよ……。
「冒険は続く」
そうつぶやいて私は、リビングのソファで寝転がってスマホをいじってる娘に「今夜はUber Eats で頼もうか?」と声をかける。
ちょい足しレシピ 生春巻き
【材料】
生春巻き
生春巻きの皮
海老
サーモン
生ハム
パクチー
カイワレ大根
ベビーリーフ
春雨
アボカド
クリームチーズ
ミニトマト
大葉
つけダレ
モイオットチャン
スイートチリソース
【作り方】
①野菜を巻きやすい大きさにカットしておく
②海老の殻をむき背ワタの処理をしてボイルする
③生春巻きの皮を水で戻す
④生春巻きの皮を広げてお好みの具材を巻いていく
⑤食べやすい大きさにカットする
⑥季節のフルーツなどと一緒に盛りつける(SNSの写真を撮る)
⑦しっちゃかめっちゃかになった台所を放置してSNSに投稿する(誰が片づける?)
母子が友だちになる女子会レシピ(お酒にも合うよ)
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